『終わりにする、一人と一人が丘』のプロセスブックです。
右から開けば戯曲、左から開けば「長いちらし」=作・演出の西尾佳織とデザイナーの鈴木哲生による公演チラシ作成のための打ち合わせ対談(8回分!)が一冊に収録されています。
超ボリュームで、読み応え抜群です。
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※「長いちらし」より、内容を一部抜粋してご紹介
■芝居
西尾 この話の中で、人が回復していくとき、そのプロセスのどの部分を描くのが一番いいのか? ということも今思っているんだよね。個別にあんまりうまくいってない二人が、一緒にいたらそれぞれに、個々で、うまくいくようになったという話の、その回復のプロセスを描くつもりだったけど…。でも作品、つまり「この世の中にあってほしいもの」を作るなら、「こんな風にも人はあれるのか」みたいな結果の部分を見せれば十分なのかも、とも思ってる。
鈴木 それは確かにいいかも。ただそれは直説法の肯定形の語りになりますよね。そうではなく、「既存モデルではない生き方であり、そしてそのアンチの既存モデルでもない生き方」みたいな「AでもなくBでもない生き方」「想像できないけどありうる生き方」を、自分の目指せるニーシュな方向性だと思える生き方というものは「まだ到来してない」って形でしか描けなさそう。すでに理想形を描いちゃうと憧れの対象になっちゃいそうというか…。
西尾 うんうん。内藤礼すごい好きなんだけど、豊島美術館が本当によくて、あの空間自体が作品で、常に状態は変わっていってどの瞬間をとっても成立してる、存在のルール自体を作ってるようなところが素晴らしいと思ったんだよね。それに対して、演劇とか物語はまどろっこしいと思っちゃうところがある。特に最近。
鈴木 そうなんだ。
西尾 うん。……でもこの話は、私の中に横たわっている長い悩みというか、たぶん私だけじゃなくてみんな思ってる、そう簡単に抜け出せない停滞のようなものだと思うから、今は話せない……。
鈴木 そうですか。
西尾 演劇の、フィクションを経由する形式を尊いと思っているのだが、制度になっちゃってる部分には乗れなくて、どうやってちゃんと分けられるんだろう? ちゃんとやれば、大事な部分だけ扱えると思うけど、むずい……。
鈴木 いきなり何を言ってるのか分からない。具体例は?(つづく……)
■タイトルがいよいよ決まるという話
西尾 タイトル、「終わりにする、一人と一人」と「遠い親密」というのが浮かんでるんだけど、どう思う?
鈴木 ほう。
西尾 「終わりにする、一人と一人」の方は、かなり直接的な言い方をタイトルに出しちゃってるんだけど、「終わりにすること」と「個人」が大事ということを端的に言いました。こないだ話した、わざと関係の遠いところから言葉を持ってくる案もいいなあと思ってたんだけど、それは私には、難しかった……。
鈴木 まあ、わざととぼけるのはよくないから、素直な方がいいのかもしれないですね。
西尾 うん。「遠い親密」は、実は去年3月に城崎で戯曲を書いてる時に同時に作った小さいパフォーマンスのタイトルなんだけど。親密さって距離じゃなくて、もう全然会わなくなっちゃった人でも、佇まいとか存在が自分の中に残ってて今の私を支えてたりする。それを「親密」と呼びたい。問題にぶち当たってる人がいて、でも他人がああせいこうせいと言ってもどうしようもなくて結局その人が自分でどうにかするしかないようなとき、大切な人の面影のような「遠さ」の方が大事なのでは…。
鈴木 ほう。
西尾 でも「終わりにする、一人と一人」の方が、あんまりタイトルらしくなくて面白いなと思ってる。「遠い親密」はちょっとありがちかも。
鈴木 「遠い親密」は逆説のつなぎが矛盾してて面白いな〜と思ったんだけど、タイトルっぽくなさでいうと、「一人と一人、終わりにする」の方がよりタイトルっぽくないよね。だからそうしたいなら「遠い親密」じゃなくて「遠さ、親密」にするとかがいいんじゃないでしょうか。
西尾 ああ…なるほどね。文なのかよ? みたいな。たしかに形容詞+名詞じゃなくてブツ切れ感、併置感みたいなのは面白いかも。(つづく……)